名前

「時さえ忘れて」という名前が何を指しているのか、何をもって「時さえ忘れて」なのか、今更ながら考えてみました。


考えてみると、名前というのは不思議なものですね。お店を始めるにあたって、店名を考えない人は、ほとんどいないでしょう。なんの疑問も持たずに、店名を考え、名前を付けている。僕たちは一体、何に対して名前を付けているんでしょうか。名前を付けることが当たり前すぎて、なぜ名前を付けるのか、何に対して名前を付けているのか、おそらくほとんどの人は考えていないんじゃないでしょうか。僕はそんなこと考えもしませんでした。お店に電話がかかってくると、「はい、時さえ忘れてです」と応えてきたけれど、何をもって時さえ忘れてなのか、そんなことちゃんと考えてこなかった。「はい、スズキケイスケです」と応えた方が正しかったんじゃないか。そんなことを思ったりするんです。


「時さえ忘れて」とは一体なんなのか。おそらく大体の人は、こう答えるんじゃないでしょうか。「スズキケイスケがお酒や珈琲を提供しているお店」と。たぶん、それで大体合っていると思います。でも、それじゃ足りないんです。スズキケイスケがお酒や珈琲を提供しているお店に、あなたが来て、はじめて、時さえ忘れてになる。僕とあなたの間に、時さえ忘れては生まれる。そう思ったんです。


お店というのは、お客さんが来なければただの箱です。お客さんが来てはじめて、ただの箱からお店になる。脈打ち、呼吸を始めるんです。だから、僕ひとりだけじゃ、時さえ忘れてにはならない。だって、あなたに来てもらわなければ、どんなに美味しいお酒や珈琲も、ただの液体でしかない。あなたに「美味しい」と言ってもらった日々が、今では遠い昔のことのように感じられてしまいますね。僕とあなたの関係性が、面白かったり豊かだったりすれば、それがそのまま時さえ忘れてになっていく。そんな風に思うんです。


お店がなくなってしまったので、もうお酒や珈琲を提供することはできません。だからと言って、時さえ忘れてが終わったわけではありません。僕は、名前を付けることにしたんです。


「お店を閉めてからのこと1と2」に書いたように、僕はこれから、自然を見つめ、見たこと感じたことをそのままに、文章を書き、写真を撮り、それを紙にして、あなたに届けます。受け取ったあなたは、感想でも近況報告でもなんでも構いません、好きなことを好きなように、手書きで僕に返事を送ります。手書きです。手書きが重要なんです。翌月、僕はまた文章と写真を紙にして、あなたに送ります。その時、僕も手書きであなたに返事を書きます。


お店はなくなってしまった。お酒や珈琲は提供できなくなってしまった。でも、まだ続いているんです。終わってません。僕が感じたことをあなたに届ける。お酒と珈琲、写真と文章、そこに大きな違いはないと僕は思っています。違いがあるとすれば、僕はまだまだ写真も文章も拙い。お酒や珈琲に比べたら、まだまだです。でも、時間をかける。あなたも時間をかける。今までの時さえ忘れてが、そうであったように。カウンター越しに話しをすることと、相手のことを思いながら手書きで手紙を書くことの違いは、一体何でしょうか。時間も手間もお金もかかる。効率なんて求めない。だから生まれるものがあった。時さえ忘れてがあんなにも豊かだったのは、あの場所に集う人々の気持ちが、豊かだったからじゃないでしょうか。


僕は名前を付けることにしたんです。これからの僕とあなたのやり取りに。名前は「時さえ忘れて」です。良い名前です。時さえ忘れては、これからも続いていきます。